●「年を重ねて大法に」で切るのではなく、「大法に乗託せる身」、大法、即ち宇宙の真理、自然の法則の御催しによりて存在せしめられてあるということに、与えられてある日々の生活のなかで、如来さんが私自身の迷いや苦しみとなり給いて、気付かしめんとご苦労なさっておられると頂いています。すべてが如来さんの一人働きなんですね。と、偉そうなことを申してしまいましたが、
煩悩をわがものとする卑下慢に
永くとどまりみ仏を見ず
同師のこのお言葉に、「私が、私が」と、どこまでも自分に固執する根性の根深さにドキッとさせられます。
●歳を取れば煩悩(欲望)も、それなりに治まり、寂やかな、落ち付いた心持ちで生きていけると、勝手に思い込んでおりましたが、どうして! 尚一層、煩悩は盛んになるばかりで、寂やかな境地どころか、不安に強迫されっぱなし、自分で自分を持て余してしまう日々を、辛うじて送っています。それも賜りたる私、相変わらず身の事実に反逆し続けている根性も含めた私を、与えられたままに歩んでまいりたいと思っています。「たいと思っています」というのは余計でした。
●いよいよ厳しい冬に突入しました。高山地区では、最低気温がマイナスになるのが当り前、何とか無事に冬越ししてちょうだいと願いを込めて、境内地に植えているレモンとローズマリーに寒冷紗と藁でマルチングしています。
レモンは常緑樹なので、年中、緑の葉っぱが繁っているはずなんですが、さすがの寒さで、どんどん茶色くなり枯れて行ってしまいます。あまりの寒さに耐えきれなくなって枯れていくんだなぁと思っておりましたが、寒さに耐えて乗り越していくために、あえて自らが自らの葉を枯らしているんだそうですね。枯れた葉っぱは大地に還り、微生物に分解されて養分となっていく。何だか、大自然の大いなるお働きを感じずにはおれません。と、同時に、レモンの樹もいずれは朽ちていくということに気付こうともせず、相変わらず自分は葉っぱではなくて樹なんだと言い張っている自分の姿をも感じさせていただいております。
●お問合わせを設置させていただいています。
最近、私は何を求めているんだろうかと思うことがあるんです。経済も大事かもしれませんが、「お互いに通じ合えたなぁ」、「繋がっているんだなぁ」という実感を何より求めていたんだなどと、何かと立派な理由を付けたがってしまうんですが、要するにおしゃべりをしたいんですね。
辻褄の 合わぬ話しを 聴いて炉辺
G先生が、「昔は、夕方になると、村の人たちが農作業を終えた後にお寺に集まって、冷えた身体を本堂にある囲炉裏で温めながら、どうでもいい世間話しをしてから、それぞれ家に帰って行かれた。それがいいんだなぁ」と満面の笑みでご説明下さり、頂戴したお言葉なんですが、お問合せがそのような場所となればと、心より願っています。お便りをお待ちしております。
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西方寺の本尊(阿弥陀如来像)
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生れ変った西方寺全景

新しい垣根

庭に咲くドウダンツツジの花
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